お久しぶりです、izu*です。
ひとつ前の記事でもお知らせしたように現在実家に帰省中です。 大変個人的なことなのですが、この数日間、私にとっては目まぐるしく世界が変わった数日間でした。 あの日がもう何ヵ月も前のように感じます。 でもそれは、悲しみを含みながらも、私に希望の光が射した日々でした。 この『1畳のキッチンから』を始めたのは、私の“本当に好きなこと”であるお料理を記録しておくためです。 あの時はこんなものを食べたんだなぁ。その時はこんな気分でごはんを食べたなぁ。 そんな風に自分に対する覚え書きであると同時に、コメントのやり取りをさせていただくようになり、ネットを通してたくさんの素晴らしい“自分らしさ”をお持ちの方に出会えた場所です。 そう。わたしは“本当に好きなこと”を記録するためにブログを始めました。 だから、ブログにはお料理以外の話や話題は出来るだけ書かないように努めていました。 だけれども、この数日間のことはこれからの私にとってきっと忘れ得ぬ日々であり、最低であり最高でもある密度の濃い日々だったので記録しておきたかったのです。 お料理の話はないです。 読まれた方が悲しくなったり不快に思われるかもしれないお話です。しかも小論文並みの超長文です。 だから無理に読まないでくださいね。 ひたすら自分語りなんですから。 でも、私には大切な自分語りなのです。 2009年3月12日のことでした。 彼と二人で夕食を済ませて自宅に戻った私は、支度を済ませるとひとりで街に出かけました。 そしてハンバーガーショップのトイレの中で、持ち込んできたミネラルウォーターを使って睡眠薬などを50錠ほど飲みました。 ヒルナミンやベンザリンというお薬で、かつて通っていたクリニックから処方されていて残っていたお薬の一部です。 それから店を出て当てもなく歩きました。 ここまで読んでくださった方にはわたしが何をするつもりなのか…目的は察してくださると思います。 それを誰もいない自宅で実行しなかったのは、私の自宅があまりに悲惨な状態で、逃げたかったからです。 私は調子が悪くなると破壊衝動に駈られます。自分の体も視界に入るものも全部、ぐちゃぐちゃに壊したくなる狂暴な感情が沸いてくるのです。 実際、今まで私が病気を抱えてきた4年間の間には、周りにあるものを殴ったり破いたり壊したり、自分の体でさえ傷付けたことが数えきれないほどあります。 理解はしていただけないでしょう。 私自身、なぜ綺麗好きな自分が自ら室内をメチャクチャにしたり、体を傷つけたいと思うのか分からないのです。 だから毎回少し落ち着いたあとは真っ先に、真っ赤な血が滴る自分の左腕を見て泣きました。 『お母さんごめんなさい。お父さんごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい…』 そう口に出して謝って泣きました。 私は家族に対して自分の病気のことを打ち明けられずにいたのです。 私が最初に精神科の門を叩いたのは大学1年の秋のことでした。19歳です。 調子が悪くなった切っ掛けとなる出来事は高校3年生の夏から受けていたクラスメイトからのストーカーとも思えるイジメでした。 私が出た公立高校には普通科以外に理数科というものがあり、理数科はいわゆる特別進学クラスで定員も40人だけ。一度入学したら卒業までクラス代えのない固定クラスで、教室も普通科のクラスが並ぶ校舎とは渡り廊下でつながる別棟にありました。 そんな、ある意味閉鎖的な空間のなかであるせいか進学クラスであるにも関わらず私たちのクラスは皆仲が良かったのです。 少なくとも、私の目には、和気あいあいとしたクラスでした。 それなのに受験を控えた夏からイジメが始まり、私は訳が分からなくなりました。 犯人は分かりません。一人なのか、複数なのかも。ただ分かるのは、どう考えても理数科の人間でなければ出来ないということだけでした。 毎日ローファーに水が入れられ、ロッカーの取っ手に粘着質の汚水が毎朝付けられ、一度鍵をかけ忘れた日にはロッカーの中身を同じ汚水で汚されました。 そんなことをされた資料集や参考書は使う度に嫌な思いがしたものです。 私が座る席に瞬間接着剤が付けられていることに気付かず、制服のスカートが駄目になりました。 水泳水着が盗まれたこともありました。 私の顔写真と女性の全裸体を合成した写真が送り付けられ、クラスメイトの男子の机にばら蒔かれそうにもなりました。 どんなに辛くても受験はもうすぐそこ。 学校には行かなければなりません。 学校には休まず通いました。 でも人間不信は日に日に酷くなり、私はクラスで孤立しました。それは自分で望んだこと、ひとりでいるのが一番良いと自分に言い聞かせました。 でも時々授業をサボって女子トイレに籠ったり、保健室のベッドで寝ていました。 トイレにいれば右手が真っ赤になるまで壁を殴りながら泣き、保健室では口にタオルを噛みしめて声を殺しながら泣きました。 思い切って打ち明けた担任の先生には『犯人から逃げるな』と言われ学校に通い続けました。 担任から事情を聞かされた母はたくさん泣いていました。 母は、父や姉にまで心配させないように自分の心の中だけにイジメのことを留めておくと言い、父と姉には黙っておこうねと私に言いました。 母の気持ちは痛いほど分かります。 だけど本音を言ってしまうなら、私はその時の母の決断を後々になって罵倒したいほど責めたくなるのです。実際に責めることはしないけれど。 わたしは塾などにも通っていませんでしたから、ギリギリまで学校で自習をします。学校ではトイレや保健室で一人きりでなければ泣けません。 ひとりで朝8時から夜7時半まで校内で耐えながら受験勉強し、家に帰っても母と二人きりの時間はそれほど多くないし、心配させたくないのでイジメの話はしません。 父が帰ってくればそれこそ話題に出来ません。 母以外の家族には話せないという状況は、私から“家庭”という唯一弱さを見せても許してもらえそうな場所を奪ったのです。 毎日私より先に寝た両親が本当に寝たかを確かめてから、タオルを口に押し込めて、歯をギリギリと噛みしめながら泣きました。 決して声が漏れないように。 母にも父にも心配されないように。 あの頃はイジメ以外にも、恋人であり友人だった同級の彼の突然の死などもありました。 家庭の事情でいつも人知れず悩んでいた彼は、本当になんの前触れもなく、ひとりで逝ってしまったのです。 それでも悲しみに浸る暇もなく受験勉強を続け、センター試験でミスをしてしまい、浪人はしないで欲しいという両親の希望を読み取って、本来目指していた学部ではなくA判定が出ていた現在の大学の学部・学科に進学し、仙台にやって来ました。 うちの大学はネームバリューはあります。 卒業生にはノーベル賞受賞者もいるほどだし、東北地方で生まれ育ったわたしには、この大学が東北地方でどれほど尊敬されているか知っていました。 でもわたしは、どうしても心から喜べませんでした。 大学は良いのです。大学そのものも、教授陣も、友人たちも素敵で良い大学だと思っています。 ただ進学した学科は本来目指していたものに比べたら、難易度もぐんと下がったレベルに位置していました。(あくまで受験当時の数値で見た場合です。) 私は自分でもその時はじめて気付いたのですが、プライドが高かったようです。 そこらの短大や専門学校を出た人でもなれる職業に将来就くことが、なんとなく嫌だったのです。 しかも更に悪いのは、そうした経緯で“妥協”して入ったはずの大学の授業が予想以上に難しく、自分のモチベーションの低さも手伝って、成績が全く奮わなかったことです。 これは私にとって大変なショックでした。 前述したイジメのトラウマで精神的にもまだ弱っていて、その間に大学で知り合ったある男性から無理矢理セックスフレンドのような扱いを受けていた上に、好きだった勉強もちっとも楽しくない、しかも(失礼ながら)見下していた学科での成績が奮わず自信も何もかもなくして…。 そうした要因が複雑に絡み合った結果が心の病気になったのだと思います。 皆さんに弁明しておきたいのは、先ほどセックスフレンドと言いましたが実際に行為に及んだことはありません。 これだけは信じていただきたいのです。 私はまだ処女だったにも関わらず大人の男性にあんな扱いを受けて、逃げることも出来ずに、どうしていいか分からないまま何度も会瀬を重ね、流さるままになってしまいました。 この男性は性的なことを何も知らない私に手取り足取り教えてあげるのが楽しかったらしく、行為に及ばなくても自分が教えた方法で私が女性になっていくのを見て快感を得ていましたから。 だから私は自分の処女性をこんな男に捧げたりはしていません。断じて。これだけは信じてください。 さて、そうして心の病気になってしまったのですが、私は家族に打ち明けることが出来ませんでした。 心配させたくなかったのが一番ですが、高校時代の経験から家族(母だけでなく父や姉)に話してはいけないような気がしていたのです。 両親に心配をかけなくてもきっと良くなる。 そう信じて精神科に通いながら大学にも通いました。 今の彼氏とお付き合いを始めてからは、あの男性との縁もぷっつり切ることが出来ました。 だけれども、そう簡単なものではなかったのです。 あらゆることに興味がなくなり、集中力も続かず成績は下がる一方で、次第に大学に通うこと自体が苦痛に変わっていきました。 私の通う専攻は大学ながら37人しかいません。その人数と変わらないメンバーという条件が、高校時代のあのクラスを彷彿とさせてしまうのです。 そして遂に、ギリギリの成績で大学3年次生まで進級することは出来ましたが、学校には全く通えなくなりました。 大学にもなって不登校となり、しかも丸2年間、大学にも両親にも何の連絡もつけずに大学を休み続けてしまったのです。 きっと私のこうした行動をお読みになった方の中には、人として最低限必要な礼儀もなっていない子だと思われるかもしれません。 せめて早くに休学でもすれば良かっただろうに!せめて両親に打ち明ければ良かっただろうに!とも思われるでしょう。 でも、休学届けを出しに行くのでさえ出来なかったんです。 大学に近付くと体全身がそれを拒否するのです。だから大学の教授がわざわざくださった電話やメールも怖くて返せませんでした。 家族にも怖くて打ち明けられなかったのです。すごく、すごく怖かった。 帰省する度に、わたしは嘘に嘘を重ねました。 家族の前では“昔と何も変わらない私”を保つのに必死でした。大学にも通っているように装いました。 だけど、2年間嘘に嘘を重ねる度にそれは私自身に重く、重くのし掛かりました。 そして“本来なら”卒業が近づいた今月12日、その数日前から私の携帯には大学教務から毎日着信が入っていました。 私は怖くてその電話を取ることが出来ませんでした。 そしてその日の夕方、痺れを切らした大学の教務の方が実家の母に連絡しました。 母から『大学から電話があったんだけど…』とメールが入って、私はもう終わりだと思いました。 嘘を重ねて築いてきた『私のあるべき姿』が音を立てて崩れました。 それから母や姉からたくさん着信とメールが来ても、私は出ることが出来ませんでした。怖くて怖くて、ガタガタと震えました。 『今お父さんとお母さんが仙台に向かってるから』 という姉からのメールの文面を読んで、私の心はもう自分でもその暴走を止めることもできず、薬を手に自宅を飛び出したのです。 薬を大量に飲み意識が朦朧としてきた私は、でも死にたくないという思いを失ってはいませんでした。 彼に電話をし、助けてと懇願し、街まで彼が来てくれました。 彼が駆け付けた時の私は足元もおぼつかず、まともに歩くことさえ出来ない状況で、上手く話すこともできませんでした。 それでも彼は私の具合を診て、両親が駆け付けているであろう私の自宅まで車で行き、私が 『会えない。話せない。』と駄々をこねると、彼はアパートの下で私を待っていた両親の元へ行き、わたしの恋人だと挨拶した後にこれまでの経緯を両親に伝えてくれました。 意識が朦朧としながらも両親と会い、話した私は、仙台に泊まろうと考えている父と母に対して『実家に帰ろう』と言いました。 それは、前述した通りに自宅がゴミ屋敷のように部屋中が荒れ果てて寝る場所すらなかったのも原因ですが、やっぱり帰りたかったのだと思います。(言い方が断定でないのは、私自身の記憶が曖昧だからです) 実家に帰るまでの車中、後部座席に寝転んだ私は薬の副作用で酷く暴れました。 腕も足もじっと出来ずにバタバタと動かしていました。 一緒に後部座席にいた母は私の腕を押さえてはいましたが、私の足は母のお腹を何度も何度も蹴っていたと後日聞きました。 私が実家に戻った翌日、姉が東京から駆け付けてくれました。 会った途端に抱き締められ『生きてた…』と言い、泣きじゃくっていました。 それを見た母や父も涙ぐんでいました。 母はすぐにいつも連絡をくれていた大学の教務係の方に電話し、今後のことを相談したところ、教務の方はとても丁寧に優しく説明してくれました。 2年間の無断欠席でも除籍処分なんてならないから安心していいということ。 今から休学届けを出せば特別措置で4月から休学にしてもらえること。 教授もずっと気にかけていてくれたこと。 私はずっとずっと重荷になっていた『家族に打ち明ける』ということが、こんな形で実現し、一気に楽になりました。 本当なら自分の口ですべて話さなければならないところを彼に代弁してもらい、大学との連絡も母に投げてしまうという、なんとも他力本願な方法ではあるのですが、それでも本当に、本当に心がふっと軽くなりました。 実家に帰ってから、一度にすべては話せないけれど、毎日毎日少しずつ、自分の気持ちを口に出しました。 今までのことは辛くて話しにくいけれど、これからどうしたいかを毎日考え、その日考えたことを話しています。 1年間休学することは決定です。 ではその後どうするか? 姉は、もし今の大学が嫌ならば他の学部への転向という方法もあると言ってくれました。 でも私は、やはり今の大学のこの学部学科を卒業したいと決めました。 先述したように、当初は見下していた学科です。でも私はその学科の授業の難しさにつまづきました。 他の大学に行ったら、自分が不本意で入った学科に更に負けることになります。 それならば、私は入学したからには最後までやり通す道を選びます。 正直に言えば、卒業して得られるであろう職業には未だに大した魅力を感じているわけではありません。それが医療界にとって、とても重要な仕事であるのは理解してはいるのですが。 ただ、今のわたしには卒業後のことまでは考えが及びません。 当面の目標は『卒業すること』なのです。 そして、勉強を重ねて復学すればそんな偏見な価値観は変わる可能性が大きいでしょう。 私は勉強が好きでした。 どの教科でも、自分が知らないことを知るのが楽しかったのです。数学だってゲームのように楽しめました。 だけど大学の勉強は今思うと少しも楽しんでいませんでした。 だから、これからの1年でもう一度自分のやり方で2年次までの専門科目を学び直します。 元々は好きで選んだ医療の学問ですから、難しさを乗り越えればまた楽しさを持って学べると思うのです。 この意思が固まったのはほんの1日前です。 それまでは、両親への申し訳なさから学費の足しになるように休学中は勉強しながらアルバイトに勤しもうと考えていました。 母も賛成してくれましたが、でもやはり数日間自問自答した結果、実家という衣食住を家族に支えてもらえる環境において、一番に私が力を注ぐことはやはり勉強なのだと思ったのです。 昨日の夜、やはりアルバイトは勉強に余裕が出来てからでないと出来ないということを話し、学費はまだ出してもらわなければならないし復学したらまた仕送りもしてもらわなければならないことを両親に詫びました。 両親は何を今更!という風にお金のことなんて心配しなくていいと言ってくれました。 母は仙台から私を連れて帰る車中、私が母のお腹をドンドン足で蹴られた時に、私がお腹にいた時のことを思い出したそうです。 私は母のお腹をよく蹴る子で、そのせいで出血したこともあったんだからと。 母は『一体いつまで時間を戻してあげられたら私がこんな目に合わずに済んだのだろう』とやはり考えたそうです。 でも私が車中で彼女のお腹を何度も蹴った時に、もう一度私が自分のお腹に戻ってきて、そして新しくまた生まれたような気がする…と私に言いました。 新しくまた生まれたと考えれば、やり直せるから。 人生のうちで4~5年無駄にしたくらい何でもないんだから。 無駄にしたと思ったそんな年月だって、Mさんという大切な恋人や定期的に心配してメールをくれたEちゃんのようなお友達が出来たんだから。 だからもう昔のことは忘れちゃって、これから好きなようにしていい。 休学中だって勉強しなきゃと気負わなくていい。 大好きな美術館にも行こう。映画も観よう。好きな読書だってピアノだってお菓子作りだってやっちゃいなさい。 Mさんとのデートの為にちょくちょく仙台にだって戻ればいい。 なんにも心配いらないからね。 みんなizuちゃんの為なら何だってしてあげるんだから。 義務とかじゃなくて、大好きだからしてあげるんだから。 こんなことを、この数日間、父や母から何度も言われました。 家族に愛されているんだと毎日毎日感じています。 父と母は私の彼氏にも本当に感謝しています。 感謝だけでなく第一印象や話した感じが最高だったらしく、父なんて男親のくせにちょこちょこ『Mさんはさ…』と話を聞きたがります。 娘としてはちょっと拍子抜けしてしまうほどの公認っぷりです(笑) そんな家族を見ていて、私も改めてあの人が恋人で良かったとしみじみ感じています。 私は恋愛に対してドライで、あまりベタベタするのが好きでなかったけれど、こうして離れてみるとやっぱりすぐ会えない距離に彼がいるのは寂しいと思うし、電話やメールが愛しくてたまりません。 そして人として最低限の礼儀を欠いた態度をとり続けた私なのに、見捨てずに気に掛けて下さっていた大学の教授や教務のYさん。 大学側がまだ道を残しておいてくださったおかげで、未来を考えられるようになり、道も見えてきました。 本当に感謝せずにはいられません。 ここまで寛大な措置を取っていただいたから、取り敢えずオールCの成績では卒業しないように頑張ろうと思えます。 この怒濤の数日間で、今まで気付かなかった、私に繋がっている人と人とを繋ぐ糸のようなものを感じています。 こういうものって、やはりあるんですね。 星の王子さまがキツネに言われたことは本当だったのです。 『いちばんたいせつなことは、目に見えない』 『きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きみのバラに、責任がある……』 私は今まですごくすごく回り道をしてきて、グルグルしてきた割りには一歩も進んでいませんでした。 でも、進むことは出来なかったけれど、こうして目には見えない大切な絆を感じることが出来ました。 私は、私を2年半も恋人として一緒に生きてくれた彼の愛にも、場所を残しておいてくれた大学の方々にも、何よりずっと愛してくれた家族にも、責任があるんですね。 だから私は今、ようやく道が見えました。 悲しみはまだ消えません。きっと何年経っても消えないでしょう。 でも、それでも進むべき道が見えたから、今はその道を一歩一歩、歩くことだけを考えて生きます。 今までのブログは、やっぱり少しだけ虚構の部分がありました。 だって元気な私を装っているんですもんね。 だからブログのタイトルをちょっと変更します。 新しいタイトルは『一緒に食べるとおいしいね。』 今まで通り、私が作る家ゴハンも紹介します。彼や家族と食べた外ごはんや実家ごはんも。 だけど、食事のことだけじゃなくて、思ったことや考えたこと…書いていいですか? こうして皆さんにお聞きしておきながら、結局は書いちゃうと思うんですけれど。 だから食べ物のお話だけが見たくて『1畳のキッチンから』に来ていただいていた方には残念なお知らせかもしれません。 ごめんなさい。。。 元々アクセス数も多くは少ないブログですが、それでも『1畳のキッチンから』を読んで下さっていた方には、遊びに来ていただいている感謝の気持ちをこめて、こうしてお話しました。 小論文並みの長文、読むの疲れましたね。 読んでくださってありがとうございます。 悲しい気持ちにさせてしまったかもしれません。 こんなことをしてた子だったのか…って不快な気持ちにさせてしまったかもしれません。 それでも、もし今までと変わらずにブログを楽しみにしてくださる方がいたら、やっぱりその人と私の間にも何かの糸があるんでしょうね。 私はその絆を大切に思います。 ほんとうにありがとう、って気持ちでいっぱいになるでしょう。 『1畳のキッチンから』にはさようなら。 新しく『一緒に食べるとおいしいね。』に、はじめまして!こんにちは!
by swarm-of-meteors
| 2009-03-18 17:51
| ごあいさつ
|
カテゴリ
以前の記事
2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 検索
タグ
仙台(40)
cafe(18) 実家ごはん(14) テイクアウト(13) 和食(12) お菓子(12) 本(8) 花とハーブ(7) 福島(7) Art(6) 2009 GW(5) 居酒屋,pub(5) 映画(4) 2008 宮崎(4) らーめん(4) 東京(4) 2009 沖縄(3) アジアン,エスニック(2) イタリアン(2) 那須(2) 最新のトラックバック
お気に入りブログ
うちの食卓 Non so... パリときどきバブー f... vie naturell... easygoing... 深川きっちん日記 ****** Yukiの部屋*Bonj... petit bonheur* Rika@_flute ... the perks of... エリオットゆかりの美味し... life Galettes and... 40計画 仙台プリザーブドフラワー... 田中里奈オフィシャルブログ その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||